丹羽康博による今展は、ドローイングが中心となる。ほかの作品では言葉が密接に関わってくるが、言葉から一旦、離れてみようという試みに相応しいのがドローイングだった。予期した以上の自由さがそこにはあった。素材との行為の関係性を詩的に紡いできた丹羽にとって16くことは特別な行為なのだ。
はじめは画面と会話があるが、描いていく中でそれすらもなくなっていく。目指すべき地点は、「自然がそうさせたような佇まい」。筆跡が残る地点を越えてからがスタートだという画面からは、無駄な思惑が消え失せた後の、名前のつけられない「ナニモノカ」の気配が立ち昇る。決して自分では名づけはしないが、放し飼いだから観る人が好きに想像してもらうのは構わない、その思いが展覧会名にも表れているのだろう。
己が安心したいだけという気持ちをひた隠し、名前をつけなければ存在し得ないというように、すべてに名前をつけたがるものたちを、端から幕でも引っ張るようにして世界が捲くれ上り闇ばかりになり、やがてその闇も世界ごと消してしまう。口にしてしまえば、ただの弱弱しい言葉にしかならない、血の流れる身体の中でしか生きることのない力を宿して。