一昨年、美濃加茂の地に移り住み「作品に対する集中度と、制作の楽しさが格段に上がりました」と話す。 阿曽の作品は一般的な焼き物より焼成温度が低い。1000℃を超えると硬質になるが敢えてそれを選ばないのは、土と焼き物の間の生っぽさを遺すため。 焼く前の土が持っている、焼かれた土が持っている両の感触。まだ息をしており湿気さえ含んでいるような「土のなごり」を。
それは野焼きの必然にもつながる。電気窯で制作していたものの、どこか違和感があった。焼き物で作品を作る意義が今ひとつ見出せなかった。 しかし野焼きを体験した時、煙、匂い、音、色、温度…土が火で焼かれて変化していく状態、土が焼き物になっていくということが初めて肌で感じられた。 頭では理解していたつもりの焼き物の過程が、鮮明に身体に流れ込んできたのだ。 自分でものを作り出す感覚、最初から最後までフィジカルに関わるこのプリミティブな制作方法がしっくりときた。
閉じた形の中の空気を逃しながら作る、それは空間を造形するともいえるか。生まれたフォルムが次なる行為を誘発する。具体的に何かを盛らずとも受け入れる形。無機ではなく息衝きをやめない有機的な存在感を放ち。虚の手触りを頼りに、今日も阿曽藍人は土とやりとりを続ける。