山の中で人知れず、とても美しく咲く花がある。もっと誰かに見てほしいと思っているのだろうか。「きっと、花はあるべき姿で咲いているだけ。純粋にそれを美しいと感じたい」とフランソワ。
家紋を突き破りユーモラスな動きを見せる鼠、雅楽を演奏する九十九神、顔がすげ替えられた猫や鳥、鹿に化身した豊穣を司るオオゲツヒメノカミ…貴賎や年月、大小に関わらず何が偉い訳ではなく上下もない。人も精霊も目に見えぬものも、植物も物質もただ等しくそこに存在する。
骸骨を描いている時、白い花のように感じた。普段は隠されているが、自分も含め誰もが持っているもの。そのものへの愛おしさ。決して怖がらせようとして描いているのではない。その骸骨を描いた作品のタイトルに「世見かえり」とある。もちろん蘇りでもあるのだが、世を見て帰っていくのか、世を見に帰ってきたのか。ふと、死とは世を見てやがて帰る場所なのかもしれないな、と思い立つ。
いつしか何もかも滅びる。しかし、それは本当に「終わり」なのだろうか?いや、身体は容れ物でしかない。見えるものと、見えないものの両方が揃ってわたしたちは生きている。そう考えると、死とは見えている部分が消失しただけともいえる。
たとえ曇天だとしても、その雲の向こうには変わらず月も星も太陽も存在し、瞬き輝いている。闇を解けば魑魅魍魎も神もまた、すぐ傍に存るのだろう。